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広島地方裁判所 平成2年(ワ)535号 判決 1993年2月24日

原告

栗原正志

栗原弘美

児玉ミツ子

右三名訴訟代理人弁護士

椎木緑司

椎木タカ

被告

正山弘文

正山妙子

右両名訴訟代理人弁護士

上田勝義

被告

日動火災海上保険株式会社

右代表者代表取締役

江頭郁生

右訴訟代理人弁護士

君山利男

高崎尚志

倉田治

右訴訟復代理人弁護士

今井光

被告

右代表者法務大臣

後藤田正晴

右指定代理人

稲葉一人

外九名

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  申立

一  原告ら

1  被告日動火災海上保険株式会社は原告栗原正志、同栗原弘美に対し、各金四二三三万四四〇七円及びこれらに対する昭和六三年七月二一日から各支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告正山弘文、同正山妙子は各自、原告栗原正志、同栗原弘美に対し、各金二一一六万七二〇三円及びこれらに対する昭和六三年七月二一日から各支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

3  被告国は、原告栗原正志、同栗原弘美に対し、各金四二三三万四四〇七円及びこれらに対する昭和六三年七月二一日から各支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

4  被告日動火災海上保険株式会社は原告児玉ミツ子に対し、金五五〇万円及びこれに対する昭和六三年七月二一日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

5  被告正山弘文、同正山妙子は、各自原告児玉ミツ子に対し、金五五〇万円及びこれらに対する昭和六三年七月二一日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

6  被告国は、原告児玉ミツ子に対し、金五五〇万円及びこれらに対する昭和六三年七月二一日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

7  訴訟費用は被告らの連帯負担とする。

8  仮執行の宣言

二  被告ら

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

3  仮執行免脱宣言(被告国)

第二  主張

一  請求原因

1  原告栗原正志、同栗原弘美は、後記事故によって死亡した栗原卓美(当時七〇才。以下、「卓美」という。)、栗原豊子(当時六三才。以下「豊子」という。)夫婦の四男と五男で、その相続人である(三男栗原正春は、協議により相続取得しないこととした。)。原告児玉ミツ子は、豊子の実母である。

2  本件事故の発生

昭和六三年七月二〇日から二一日未明にかけて広島県山県郡戸河内町において集中豪雨があり、右戸河内町長は住民に避難命令を発したが、同月二一日午前三時四〇分頃、同町消防団班長をしていた正山文潤(以下、「文潤」という。)は、広島県山県郡戸河内町八九二番地の一に居住していた卓美、豊子方に赴き、右両名に避難を求め、自己が運転する普通乗用自動車(広島五八つ八二五号。以下、「正山車」という。)の後部座席に搭乗させて避難先の西善寺(文潤は、同寺の副住職をしていた。)に向かうべく同所を出発して国道一九一号線(以下、「本件国道」という。)を走行したが、下川手停留所付近において板ヶ谷川の護岸(以下、「本件護岸」という。)が崩壊して国道が陥没したため、正山車は進行左側の板ヶ谷川へ転落し、右三名は氾濫する川水に押し流されて死亡したものである。

3  被告らの責任

(一) 被告正山両名の責任

文潤は、正山車の運行供用者であるから自賠法三条に基づく責任があるところ、文潤は死亡し、その父母である被告正山弘文、同正山妙子(以下、それぞれ「被告弘文」、「被告妙子」といい、両者を併せて「被告正山両名」ともいう。)両名が相続により文潤の権利義務を承継した。

(二) 被告日動火災海上保険株式会社(以下、被告会社という。)の責任

(1) 被告会社は文潤所有の正山車に関して、、文潤との間に自動車損害賠償責任保険(以下、自賠責保険という。)契約を、被告弘文との間に自家用自動車保険契約「以下、「自動車保険」という。)を締結していたので、原告らは被告会社に対し、昭和六三年一二月一五日、まず自賠責保険の請求をしたところ、被告会社は平成元年八月一〇日付で次の理由により支払いを拒否する旨の回答をしてきた。

「集中豪雨のため、当該道路の路床が板ヶ谷川の水流により抉られ、正山車が運行の際、突然道路が崩壊したもので、正山車の運行により事故が発生したものとは認め難く、又正山車は避難命令により緊急に進行中であり、道路が崩壊することを予見して行動することを期待することはできない。」

(2) 被告会社は文潤との保険契約に基づき卓美及び豊子の損害を填補すべき義務があるところ、同保険契約により原告らが直接請求権を有し、被告会社も被保険者に代わり示談代行する権利を有するから、後記の損害金を請求する。

また、被告正山両名は右賠償をせず、また被告会社も任意に支払わないことが明らかであるから、予備的に原告らが被告正山両名に代位して保険金を請求する。

(三) 被告国の責任

(1) 本件国道及び板ヶ谷川(太田川上流)の設置・管理の瑕疵

本件国道及び板ヶ谷川は、いずれも被告国の管理にかかるものであるところ、本件事故発生の原因は本件国道が陥没したことにあり、国道陥没の主原因は、板ヶ谷川の奔流により護岸が抉り取られて国道の舗装の下部が空洞化したことにある。

本件事故現場は、本件国道と板ヶ谷川とが相接近・接触する地点であり、右国道の擁壁(斜面)が同時に右板ヶ谷川の護岸でもある。そして、この地点で川は大きく湾曲し(約七〇度)、このため右護岸が川の奔流を真正面から受けて激突される状況になっていた。

これは昭和四〇年頃、右国道を直線化し、かつ幅員を拡幅する改修工事を行った際、それまで右国道に沿って流れていた板ヶ谷川がこのような形で国道に接するようになったのである。

しかしながら、このように七〇度に湾曲した川は、その奔流が護岸に突き当たり、衝撃を与えてこれを破壊することは自明であるから、国道及び河川の設置・管理者としては、先ず護岸と水流との間に緩衝地帯などを設け、さらに護岸の構造は、これに対する外圧や水分浸透(土質の液状化が地滑りの最大の原因である。)等に十分耐えられるように裏込ぐり石や裏込コンクリートを十分置いたうえで、その表面を石積みとし、下底部には強固な基礎コンクリートを設け、川床側も根固工を施し、激流を緩和する等、設計・施工・管理すべきところ、本件護岸にはそのような配慮は全くされておらず、漠然と砂盛りして空間を埋め、表面を河川の丸石やブロックを張ってその間隙をセメントで固めて支えた程度に過ぎないものであった(このことは、事故後の現場の写真等により明らかとなった。)。

このような構造は、過去における数度の同種の災害(昭和四一年、同三一年頃及びそれ以前)の結果を無視したものである。

そして、特に当該地方は山が深く、急傾斜し、土質も地滑りを起こし易い構造であることを考えると、右改修工事には設計施工上の欠陥があり、道路の設備及び河川護岸の設置上の瑕疵があったことは明らかである。

(2) 危険防止のための措置についての不備

本件事故当時、戸河内方面は集中豪雨に襲われ、異常気象のもとにあったのであるから、被告国としては、少なくとも異常事態を監視し、または情報蒐集をしてこれに基づく道路交通の禁止また制限の措置をするなど安全についての管理上の注意をし、かつ本件事故現場における道路の損壊状況等を早期に発見し、逐次適切な措置をとるべき義務があったのに、被告国はこれらをしなかった。

これも営造物たる道路及び河川管理上の瑕疵である。

(3) 以上のとおりであるから、国家賠償法二条により、被告国は原告らの被った損害を賠償すべき責任がある。

4  損害

(一) 卓美の損害 三八九六万一七七二円

(1) 逸失利益

卓美は、本件事故当時七〇才で健康であり、農業・林業を営んでいたから、少なくとも同年齢の国民平均所得(月額二七万〇八〇〇円)以上の収入を挙げていたし、同人の平均余命まで12.33年(新ホフマン係数9.2151)の間、同様な収入を挙げ得た。

その間の生活費は右収入の三割とすべきであるから、次の算式により、逸失利益は二〇九六万一七七二円となる。

(270,800×12)×(1−0.3)×9.2151=20,961,772

(2) 慰謝料 一八〇〇万円

卓美固有の慰謝料及び原告正志、同弘美の慰謝料を含めた額である。

(二) 豊子の損害 三四六七万九八七八円

(1) 逸失利益

豊子は、本件事故当時六三才で健康であり、卓美とともに農業を営み、また家事その他一切を行っていた。したがって、少なくとも同年齢の国民平均所得(月額一九万三八〇〇円)以上の収入を挙げていたし、同人の平均余命まで20.99年(新ホフマン係数14.1038)の間、同様な収入を挙げ得た。その間の生活費は右収入の四割とすべきであるから、次の算式により、逸失利益は一九六七万九八七八円となる。

(193,800×12)×(1−0.4)×14.1038=19,679,878

(2) 慰謝料 一五〇〇万円

豊子固有の慰謝料及び原告正志、同弘美の慰謝料を含めた額である。

(三) 原告正志、同弘美の損害三三三万円

(1) 卓美・豊子の葬儀費用 一八〇万円

(2) 墓碑建立費 一五〇万円

(3) 傷害経費等 三万円

(四) 以上により原告正志、同弘美の相続した請求権及び同原告らの独自の請求権の合計は七六九七万一六五〇円であるから、その二分の一は三八四八万五八二五円である。

(五) 弁護士費用 原告正志、同弘美につき各三八四万八五八二円

(六) 原告児玉ミツ子の損害 五〇〇万円

原告児玉ミツ子は豊子の母であるから、その慰謝料は五〇〇万円が相当である。

二  請求原因に対する被告らの認否

1  被告正山両名

(一) 請求原因1の事実中、栗原正春が卓美、豊子の権利義務を相続しないこととしたとの点は不知。その余の事実は認める。

(二) 請求原因2については、文潤が西善寺に向かって出発したとの点は不知。その余の事実は認める。

(三) 請求原因3(一)について。

文潤が正山車の運行供用者であること、文潤が死亡し、被告正山両名が相続により文潤の権利義務を承継したことは認めるが、その余は争う。

(四) 同4は争う。

2  被告会社

(一) 請求原因1の事実は知らない。

(二) 請求原因2は認める。

(三) 請求原因3(一)については、本件事故は、国道が陥没したため発生したものであって、正山車の運行「によって」発生したものではない。すなわち、正山車の運行と本件事故との間には相当因果関係が存在しない。よって、文潤には自賠法三条による責任はない。

(四) 請求原因3(二)(1)は認める。同(2)は争う。

被告会社に対しては、約款上当事者間(原告らと被告両名間)の判決の確定を条件として請求すべきである。

(五) 請求原因4(損害)は争う。

3  被告国

(一) 請求原因1の事実中、栗原正春が卓美、豊子の権利義務を相続しないこととしたとの点は不知。その余の事実は認める。

(二) 請求原因2について

昭和六三年七月二〇日から二一日にかけて、戸河内町において集中豪雨があったこと、右戸河内町長は住民に避難命令(勧告または指示)を発したこと、文潤、卓美、豊子が本件国道の下川手停留所付近において、自動車ごと板ヶ谷川へ転落し溺死したことは認める。その余の事実は不知。

(三) 請求原因3(三)について。

(1) 被告国が本件国道を設置し、国道及び板ヶ谷川を管理していることは認める。なお、当該区間の国道の設置・管理は広島県知事に機関委任されている。

本件国道は、昭和三九年から四〇年に改修工事がなされ(改修前の道路は、板ヶ谷川と接触する地点で山側にカーブを描き、そこから川寄りを通るS字状の幅員の狭い道路であったが、これを直線の幅員の広い道路に改修した。)、このときに本件事故現場付近の護岸が築かれたものであることは認めるが、その工事内容が原告ら主張のようなものであることは否認する。

本件護岸の基礎部分は、コンクリートによって造られ、その根入れ(河床からの深さ)は概ね1.2ないし1.5メートルであった。

擁壁部については、約五〇ないし六〇cmの幅をもち、その幅に見合う直径をもつ石が積み上げられ、その間隙はコンクリートにより充填されている。(これらの工法は、設計要領にいう「直径三五cmから五五cm程度の野面石を積み上げていく石積工」である。)

控尻(擁壁の最上部)までは、胴込コンクリート(石積の石の裏側にコンクリートを詰めること)で充填されており、石積工の法高によって、裏込コンクリートの厚みに変化をつけた補強も行っている。そして、胴込コンクリートの背後には、裏栗石の層が設けられている。

以上のような工事は、要領(建設省防災研究会の編集にかかる、当時の技術水準の枠を集めたもの)に則って施工されたもので、右要領より施工されていれば、一応当時の安全水準は十分保たれていると考えられるところである。

したがって、本件護岸は、施工当時の技術水準でもって施工された護岸であって、それ自体何ら他人に危害を及ぼすべき危険性が存する営造物ではなく、通常備えるべき安全性は確保されていたというべきである。

しかるに、本件事故現場の護岸が崩壊したのは、本件事故の前日から降り続いた記録的な集中豪雨により、本件護岸の基礎部分に関連する土台となる土の部分が異常な水により流されて河床が低下したため、基礎部分から裏側が吸い出され、護岸の内部の土が外に出てしまったので、護岸自体を後ろで支えるものがなくなって石積工が崩壊したものであると考えられ、結局不可抗力によって発生したものというべきである。

本件護岸は、築造以来本件災害まで二〇数年にわたり被災したことがなかったことは勿論、その間地元民が同部分を危険箇所と認識したり、その改造工事等を関係機関に要望したことは一切なかったのであって、本件のような護岸の崩壊は全く予測できなかった。

(2) 本件事故現場は、異常気象時における通行規制区域には指定されておらず、事前に事故発生を予測できる状態にはなかった。

また、仮に右通行規制外でも通行止の処置をすべきであったとしても、当時の状況(深夜の災害であり、道路も寸断されていた。)からみてそのような措置をとることは不可能であった。

また、ガードレールが落ち、道路が崩壊の兆候を示したのは、事故の直前であったから、この間に道路管理者が危険回避の措置をとることは不可能であった。

なお、交通規制の当否は、国家賠償法二条に規定された「設置・管理の瑕疵」の存否の問題には該当しない。

以上のとおり、本件事故現場付近の護岸及び道路は、通常予見できる程度の降雨及び河川の洪水には十分耐え得るように設計施工されていたものであって、今回のような事態はまったく予見できなかったし、また前記のような状況のもとでは本件事故を回避する手段・方法はなかったのであるから、国家賠償法二条にいう瑕疵は存在しない。

(四) 請求原因4について

卓美が七〇才、豊子が六三才であったことは認めるが、その余は争う。

三  抗弁

(被告正山)

1 免責の抗弁

戸河内町における本件集中豪雨は、昭和六三年七月二〇日午後二時頃から二一日午前六時頃まで連続して降雨があり、同日午前零時五〇分には注意体制発令、同日午前一時警戒体制発令があり、卓美、豊子の居住していた川手地区の八戸(同人らの居住家屋を含む。)に対しては同日午前三時四八分に避難命令が発令された。

右集中豪雨は、島根県西部の浜田、益田両市から広島県北西部の加計町、戸河内町一帯に及んだ大災害であり、戸河内町においては総雨量二六一mm、時間最大雨量(七月二一日午前一時から二時まで)五〇mmに達し、本件死者三名のほか住家全壊三戸、半壊六戸、床下浸水九二戸等の被害が発生し、その他にも多大な損害を及ぼした記録的な豪雨であった。

本件事故は、以上のような記録的な豪雨による増水によって、道路の下部が突然抉り取られ、道路が崩壊するという予測できない事態のもとで発生したものであるから、不可抗力というべきである。

右のような非常事態のもとにおいて、殊に避難命令の執行中という状況下にあって、原告ら主張のような注意義務を尽くすことはおよそ不可能であり、そこまでの注意義務を負うものではない。

また、このような気象条件のもとで車を運転したのは、前記のとおり文潤が避難命令を執行する義務の遂行中であったからやむを得ないものであり、これを運転に関する過失ということはできない。

以上のとおり、本件事故は文潤の過失に基づくものではなく、また正山車に構造上の欠陥または機能の障害は存在しなかった。

2 過失相殺

仮に、文潤に何らかの責任があるとしても、卓美、豊子両名は、文潤が前後三回にわたって説得するまで、時間的には午前四時頃から四時四〇分頃まで約四〇分間避難命令に従わず、そのために避難の時期を遅らせ、事故に遭遇したものであるから、右両名にも過失がある。これは損害の算定に当たって考慮されるべきである。

(被告会社の免責の抗弁)

文潤には本件道路が陥没することは全く予見できなかったのであり、さらにそのような陥没まで予見すべき義務はなかったから、文潤は注意を怠ってはいなかった。さらに正山車には構造上の欠陥または機能上の障害等何らの欠陥もなかったので、自賠法三条但書により免責されるべきである。

四  抗弁に対する認否

1  被告正山両名及び被告会社の免責の抗弁について

本件事故当時、雨は土砂降りで、しかも深夜で真っ暗闇であり、道路は深さ一〇cm以上の冠水(道路面上の水)が進路前方を右から左に流れていた。しかもその左側護岸は、板ヶ谷川が七〇度に屈曲している地点で、ここに濁流が激しく突き当たり、路面のアスファルト下が陥没する等の危険な状態であった。事実、当時板ヶ谷川側の積石上部に固定されていたガードレールは折れて落下しており、カランカランと風に煽られて金属音を発していて道路擁壁が明らかに崩壊していることを示していたし、一部路面も崩れ落ちている危険状態にあった。

文潤は地元の人間であり、かつ消防団班長をしていたのであるから、板ヶ谷川が七〇度に屈曲している地点であるという状態及び降雨が激しく降り続けている前記のような状況は熟知していたのである。したがって、事故現場直前において一旦停止したうえ下車して道路状況を監視し、その安全性を確かめたうえ、右板ヶ谷川と反対側の道路右側を進行するか、それも危険であるならば同乗した右両名を下車させて歩いて避難させる等の措置をとるべきであったのに、敢えてそのまま進行し、本件事故に遭遇したものであった。

さらに、本件事故現場の対岸では、護岸の崩壊を目撃した川本研得が大声で叫び続けていたし、付近では見回りをしていた栗栖六吾が投光器で本件道路の方を照らしていたのであるから、文潤がこれに気がつけば一応下車して道路状況を確認する措置はとれたはずである。

また、卓美・豊子は長年の経験から自宅にとどまることが最も安全な方法と考えて避難に応じなかったのに、文潤が好意からとはいえ執拗に説得し、このような危険な状況のもとを車に乗せ、運行したものであるから、このような行為自体も運行についての過失と評価すべきである(ちなみに、卓美と豊子の家は、被害もなく無事であった。)。

これらの点からすると、文潤には過失があったものというべきである。

2  被告正山両名の過失相殺の抗弁について

前記のとおり、卓美や豊子は老齢であり、周囲の客観的状況からみてむしろ避難は危険と判断したのに、文潤は執拗に避難を勧めて卓美と豊子を正山車に乗せたのである。事実、卓美と豊子の家は無事であった。したがって、卓美と豊子が避難に容易に応じなかったことをもって過失ということはできない。

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因1の事実は、原告らと被告正山両名及び同国との間では、栗原正春が卓美、豊子の権利義務を相続しないこととした事実を除いて争いがなく、その余の関係では証拠(<書証番号略>、原告栗原正志本人)により、これを認めることができる。

二請求原因2の事実は、被告正山両名との間では、文潤が西善寺に向かって出発した点を除き争いがなく、被告会社との間ではすべて争いがない。被告国との間では、昭和六三年七月二〇日から二一日にかけて戸河内町において集中豪雨があったこと、右戸河内町長は住民に避難命令(勧告または指示)を発生したこと、文潤、卓美、豊子が本件国道の下川手停留所付近において、自動車ごと板ヶ谷川へ転落して死亡したことは争いがなく、証拠(<書証番号略>、被告正山弘文)によれば、戸河内町の消防団班長をしていた文潤は、広島県山県郡戸河内町八九二番地の一に居住していた卓美、豊子方に赴き、右両名に避難を求め、自己が運転する正山車の後部座席に搭乗させて避難先に向けて本件国道を走行したが、下川手停留所付近において板ヶ谷川の護岸と本件国道が崩壊したため、正山車は進行左側の板ヶ谷川へ転落したことが認められる。

三請求原因3(被告らの責任)について判断する。

(被告正山両名及び被告会社の責任について)

(一)  被告正山両名との間では、文潤が正山車の運行供用者であること、本件事故が文潤の運行によって発生したものであることは争いがない。

(二)  よって、同被告らの免責の抗弁について判断する。

証拠(<書証番号略>)によれば、次の事実が認められる。

(1) 昭和六三年七月二〇日から二一日(本件事故当日)にかけて、戸河内町を含む広島県北西部を襲った集中豪雨は、加計土木事務所における観測結果では、総雨量二六四mm、二一日午前三時から四時の時間降雨量は五七mmで、昭和三〇年以降の最高を記録したものであった(ちなみに、三時間雨量、六時間雨量はそれぞれ一五五mm、二四六mmでいずれも加計観測所での最高を記録するものであるが、第二順位は三時間雨量では昭和五三年九月一五日の一一七mm、六時間雨量では昭和四七年七月一一日の一五七mmであった。)。

(2) 戸河内町長は、二一日午前三時四八分に川手地区の八戸の住民に対し避難命令を発し、同町の消防団班長をしていた文潤は、同地区の卓美、豊子方を訪れ避難を勧めたが、同人らは容易にこれに応じなかった。

その後も二度にわたって避難を勧めた結果、同日午前四時三〇分ころ、同人らは避難することを決め、文潤の運転する正山車に同乗した。

(3) 文潤が、避難場所に向かって本件国道を約二〇ないし三〇メートル西へ進行した地点で、正山車の通過部分の国道が崩壊して正山車は車もろとも板ヶ谷川に転落し、乗車していた卓美、豊子、文潤の三名は、増水した水流に呑まれて溺死した。

(4) 当時、雨は引き続き土砂降りで、深夜でもあり、辺りは真っ暗であった。本件事故現場は、進行左側は板ヶ谷川が屈曲している地点で、道路の擁壁は右板ヶ谷川の護岸でもあった。国道の右側は山で、山側から雨水等が落下し、道路は一〇cm位冠水し、水は山側から板ヶ谷川へ向けて勢いよく流れていた。

(5) 正山車が本件事故現場を走行する約一〇分前、付近に住む栗栖六吾が自動車で通行した。このときも降雨のため見透しは悪かったが、通行そのものには支障はなかった。そして、栗栖が通過して間もなく、右護岸の一部が崩壊し、道路は路面のアスファルトのみを残してその下部が抉り取られて空洞になり、このため事故現場付近のガードレールの一部が川の方に落下し、強風に煽られてカランカランという音を立てていた。

(6) 正山車が板ヶ谷川に落下したのは、栗栖六吾が自動車で通行した後の約一〇分の間に道路の下部が抉り取られて空洞になったが、これをそのまま進行したので、車の重さで路面のアスファルトが落下したためである。

原告らは、文潤は消防団班長であり、かつ地元の人間であったのであるから、当時の気象状況及び道路の状況も熟知しており、本件事故現場が危険であることは分かっていたのであるから、事故現場直前で一旦車を停止して道路状況を監視し、その安全性を確認したうえで、板ヶ谷川側でない反対車線(山側)を進行するか、または同乗者(卓美・豊子)を下車させて歩いて避難させるべきであったと主張する。

当時は、集中豪雨下の異常気象時であり、文潤は消防団の者として卓美らを避難させるために正山車に乗車させていたのであるから、当時の気象状況が緊迫したものであることはもとより熟知していたというべきである。

そして、確かに、客観的には当時護岸が決壊し、そのためにガードレールの一部が落下してカランカランという音をたてていた状況にあり、また、護岸が崩壊したため国道下が抉り取られて空洞になっていたが、前記のような激しい降雨のなかで、また真夜中の真っ暗闇のなかでカランカランという音を聞き得なかったとしても止むを得ないことであり、また少なくとも道路の表面には異常はまだ現出していなかったと思われる事情のもとで、文潤が一時停止をして四囲の状況を監視する義務があるとはいえず、したがって、また前記のような状況下で当然に反対車線を進行すべき義務まで負うものとは考えられない。まして右のような豪雨の中で卓美や豊子を下車させ、歩いて避難させるべきであったということはできない。

また、原告らは、避難を嫌がる卓美や豊子に執拗に避難をすすめ、結局正山車に乗車させたこと及びこのような集中豪雨のさなかを自動車で進行したことが文潤の過失であるとも主張する。

しかしながら、右の事実のうち、嫌がる卓美や豊子に執拗に避難をすすめて自動車に乗せたという点は、自動車運行上の過失というべきはないと考えられるし、集中豪雨のさなかを自動車で進行したことは、たしかに、事故当日は、折からの集中豪雨という異常気象のもとにあって、見通しは悪く、冠水もあり、また土石流もあって危険な状態であったことは主張のとおりであるが、それ故にこそ栗原家を含む川手地区の八戸に避難命令が出たのであるから、その執行に当たった文潤が自動車で避難させようとしたことを過失とみることもできない。

したがって、文潤には本件事故の発生について過失はなく、本件事故は道路の崩壊という自然現象によって発生したものであるところ、弁論の全趣旨によれば、正山車に構造上の欠陥または機能の障害もなかったものと認められる。

(三) そうすると、文潤は自賠法三条但書により、本件事故につき損害賠償責任はないものというべきであり、文潤に責任がない以上、被告会社もまた原告らに対して同法一六条一項に基づく責任を負わないというべきである。

(被告国の責任について)

(一)  昭和六三年七月二〇日から二一日にかけて、戸河内町において集中豪雨があり、戸河内町長は住民に避難命令(勧告または指示)を発したこと、文潤、卓美、豊子が本件国道の下川手停留所付近において、自動車ごと板ヶ谷川へ転落し死亡したこと、被告国が本件国道を設置し、管理していること、板ヶ谷川は右道路に接して湾曲していることはいずれも当事者聞で争いがない。

そして、本件事故発生の状況は、前記三(二)(1)ないし(6)において認定したとおりである。

(二)  ところで、国家賠償法二条一項にいう「営造物の設置・管理の瑕疵」とは、「営造物が通常備えるべき安全性を欠いている状態」をいうものとされており、それは「営造物の通常の用法に即して物的性状の欠陥ないし危険が存在すること」と「設置管理者においてこれを客観的に予見でき、かつ危険を回避するための措置をとり得る」ことを要件とするもとの解されている。

(三)  そこで、まず本件護岸及び道路に「物的性状の欠陥ないし危険」が存在したかについて検討する。

証拠(<書証番号略>、証人沖中巧)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(1) 本件国道は、昭和四五年四月一日付で国道の区域決定がされて県道から国道となった道路で、山口県下関市から日本海側を通り、島根県益田市、広島県山県郡戸河内町、加計町を経て広島市安佐北区可部町大字中野に至り、ここで国道五四号線と交わっている。

(2) 右道路は、もとは戸河内町川手の本件事故現場付近(板ヶ谷川と接触する地点)で山側にカーブを描き、そこから川寄りを通るS字状の幅員の狭い道路であったが、昭和三九年から昭和四〇年初めにかけて(当時は、まだ県道益田加計線であった。)、現在のように直線にし、かつ幅員を広げて改良したので、それまでは道路に沿って流れていた板ヶ谷川が、本件国道の護岸にぶつかってここで約七〇度ほど角度を変えて下流に流れていくという形に変わった。したがって、右道路工事と同時に、護岸の改良工事も併せて行われた。

(3) ところで、右工事の設計書類は、本件国道が前記のように県道から国道に昇格した際、広島県から国の機関委任事務としての管理者である広島県知事に引き継がれたが、右書類の保管期限が一〇年とされていたためすでに廃棄されている。したがって、現在では崩壊した本件護岸の構造を、当時の書面に基づいて明らかにすることはできない。

しかし、本件護岸に隣接して残存する護岸を調査した結果(<書証番号略>)によると、護岸の基礎はコンクリートで造られ、その根入れは河床から約1.9メートルであったこと、その上の擁壁部は、幅が五〇ないし六〇cm程度の石(野面石積)が積み上げられており、その間隙をコンクリートで充填していたこと、石積工の背部は裏込栗石が詰められており、裏込栗石は四〇cmから最下部では一一〇cmの厚さで組み込まれていたこと、控長(石積、胴込、裏込の厚さ)は四五cmから五五cmであったことがそれぞれ認められ、これらから本件護岸もほぼこのような構造であったものと推認される。

(4) 当時、広島県の土木工事一般は、建設省防災研究会編集にかかる「新様式による災害復旧工事の設計要領」(<書証番号略>以下、これを「要領」という。)に基づいて施工されていた。

右「要領」は、昭和三二年が初版で、昭和三八年までに二三版が重ねられたうえ、昭和四〇年には改定されたもので、その当時の技術水準による指針を示したものとみて差し支えない。

そして、推認される前記(3)の構造を右「要領」に照らして検討すると、擁壁の勾配及び厚さは昭和三〇年代の設計としては標準的で、裏込栗石の量や控長及び基礎コンクリートの根入れ等は基準を超えていること、擁壁の鉛直高さ(法高)は8.05メートルから8.66メートルあってやや高いが、全体としてほぼ右「要領」に則ったないしはこれを上回る構造であったことが窺われる。

(5) その後、本件護岸については昭和四七年の豪雨(次項記載)の後に、基礎の部分と石積の接点部分を一部コンクリートで補強する工事をしたが、それ以外には特別な工事をしたことはなかった。

(6) 本件護岸及び道路の改修工事がなされた後も、当該地方は昭和四〇年、四三年、四五年、四七年、五一年、五三年、五六年、五八年と度々豪雨に見舞われ、ことに昭和四七年七月一一日の集中豪雨は明治年間の大水害以来八〇年振りの大規模な災害といわれたが、このときも本件護岸には被害がなかった。

(7) 本件集中豪雨の状況は、前記理由三(二)(1)に認定したとおりであるが、証拠(<書証番号略>)によれば、板ヶ谷川は大量の雨による増水で水位が上がり、川の中では大きな石が流されながらぶつかり合うガラガラ、ゴロゴロという大きな音がしていた。そして、全体的被害状況についてみると、証拠(<書証番号略>)によれば、二〇日から二一日の豪雨で、広島県北西部、特に加計町、戸河内町を中心に死者一四名、住家の全壊三八棟、床上浸水七三棟、床下浸水四八二棟の外、河川の被害が県関係で九九箇所、市町村関係で三三七箇所、道路の被害は県関係で八七箇所、市町村関係で二三七箇所、土石流災害は主なもので七渓流、その他を加えると一〇数渓流に達した。

(8) 本件の護岸崩壊の後、被告国は本件護岸と板ヶ谷川の水流との間に空地を設け、さらに川底に底流の速度を緩和するコンクリート底柱を埋めるという改修工事を行った。

(四)  原告らは、本件護岸及び擁壁は、「漫然と砂盛りして空間を埋め、表面を河川の丸石やブロックを張って、その隙間をセメントで固めて支えた程度に過ぎない。」と主張するが、前記認定の事実に照らすと、右主張は失当である。

(五) 右認定の事実によれば、本件護岸工事は、「要領」に則って施工されたものであるから、施工当時の技術水準による安全水準は保たれているものと推認できる。

そして、護岸の築造以来本件事故までの二三年間、一度も被害が発生していないことに照らしても、本件護岸及び道路は、通常予想される程度の水害(台風や集中豪雨を含めて)には耐えられる設計及び構造であったといえる。

原告らは、本件被災後、本件護岸と板ヶ谷川との間に空地を設ける等の改修工事をしたことからみても、水流が直接護岸にぶつかるような従前の護岸はその設計において瑕疵があったことが明らかであると主張する。

被告国が、本件護岸の崩壊を教訓としてより高い安全性を備えるべく改修工事を行い、その結果が前記のような工事となったことは推認に難くないが、そのこと自体から直ちに本件護岸の設計の瑕疵を根拠づけることはできない。また、護岸の擁壁にかかる圧力は、川水の圧力よりも背部の土の圧力の方がはるかに強いものであって、土圧に対する構造的な強さがあれば、水圧には十分耐えられるものである(証人沖中巧の証言)ことからみると、護岸と水流との間に空地を設けることが必要不可欠と認めることはできず、それがなかったことをもって護岸設計上の瑕疵であるということはできない。したがって、右改修の事実も、前記認定を左右するものではない。

(六) そうすると、本件護岸及び道路は安全性に「物的性状の欠陥ないし危険」が存在したということはできない。

そして、本件護岸が崩壊するに至った機序についてはこれを明らかにすることはできないが、その原因については、前記認定の二〇日から二一日未明にかけて戸河内方面を襲った予測を超えた集中豪雨が、本件護岸を決壊、崩壊させたものであると認定する外ないものである。

(七)  次に、被告国において「設置管理者においてこれを客観的に予見でき、かつ危険を回避するための措置をとり得たか」という点について判断する。

(1) 予見可能性について

本件護岸が、昭和四〇年頃に改修されて以来、本件災害まで二〇数年にわたり被災したことがなかったことは前記認定のとおりである。また、証拠(<書証番号略>、証人沖中巧、弁論の全趣旨)によれば、その間、地元の市町村或いは住民等関係機関からも、改造工事等の要請はなかったことが認められる。一方、今回の災害をもたらした集中豪雨の態様、規模(その地域集中性、総雨量、時間雨量等)は前記3(二)(1)に認定のとおり、昭和三〇年代以降のほとんどの指標について過去最高値をはるかに上回るものであった。

これらの事実を総合すると、本件のような護岸の崩壊は予測できなかったものと認められる。

(2) 回避可能性について

証拠(<書証番号略>)によれば、本件事故現場付近の本件国道は、建設省道路局長通達により定められた「異常気象時における道路通行規制区間及び通行規制要領」による規制区間に指定されていなかったことが認められるので、本件護岸の崩壊を予測して優先的に回避措置を講ずべき地域には属していなかったといえる。

原告らは、仮に事故発生を予測できる地域ではないとしても、戸河内地方は集中豪雨に襲われ、異常気象のもとにあったのであるから、被告国としては、異常事態を監視し、かつ情報蒐集を的確に行って、通行止または制限の処置をすべきであったと主張する。

しかしながら、豪雨は深夜になって益々激しくなり、しかも当該地方にあっては国道やその他の県道、町村道のいたるところで道路が寸断されたり、電話も一部通じなかったような状況にあったのであるから(証人沖中巧)、原告らの主張するような対応をとることを期待することは事実上不可能であったといえる。

なるほど、本件の場合、道路の下の地盤が抉り取られるという重大な事態が発生していたわけであるが、前記認定のとおり本件事故発生のわずか一〇分前には栗栖六吾の車両が本件国道を無事通過しているのであるから、右地盤の流失から本件事故までにほとんど時間的間隔がなかったことになる。このわずかな時間内に管理者が本件災害の発生を知り、適当な措置をとることは到底不可能であったというべきである。

したがって、この点においても、護岸及び国道の管理に何らかの瑕疵があったと認めることはできない。

(八)  以上のとおりであるから、被告国による本件国道及び護岸の設置、管理につき瑕疵があったと認めることはできない。

四以上の次第で、原告らの被告らに対する本訴請求は、その余の点について判断するまでもなくいずれも理由がないからこれらを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官浅田登美子)

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